第三十五話「北斎の波に見立てる」
2025.05.01
贈gift
この世にある美しいものを花に見立てたら──
こんな難問に応えるのは、百戦錬磨のトップデザイナー。そのままでも美しいものを掛け合わせて魅せるのが夢の花屋です。
第三十五話は葛飾北斎が描いた「波」に見立てたアレンジメント。手掛けるのは第一園芸のトップデザイナーであり、フローリスト日本一にも輝いた新井光史。
ここからは花屋の店先でオーダーした花の出来上がりを待つような気持ちでお楽しみください。
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」
葛飾北斎の波とは
「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」は、葛飾北斎の代表作のひとつであり、日本美術を象徴する浮世絵作品です。
巨大な波が舟を呑み込もうとする一瞬を切り取ったこの絵は、エポックメイキングな作品として、その後の多くのアーティストに多大な影響を与えました。
特に波の表現は非常に印象的で、単なる水の動きというよりも、まるで猛獣が襲いかかるかのような迫力があります。波頭は爪を立てたような形をしており、そこに細かく描かれた泡が加わることで、画面にリズムと緊張感が生まれています。
この作品を含む『冨嶽三十六景』が発表されたのは、北斎が71歳から75歳のころと考えられています。しかし、この波の表現に至るまでには、北斎自身の長年にわたる試行錯誤の積み重ねがありました。たとえば40代の作品である「おしをくり はとう つうせんのづ」や「賀奈川沖本杢之図」などには、「神奈川沖浪裏」とよく似た構図が見られ、模索の跡がうかがえます。
さらに、この直後に制作された、各地の漁をモチーフにしたシリーズ「千絵の海(ちえのうみ)」では、「神奈川沖浪裏」とは異なるアプローチで波が描かれており、北斎の波への関心の深さが伝わってきます。
そして晩年、86歳ごろに訪れた信州小布施では、「男浪図」「女浪図」と題された祭屋台の天井画を手がけました。富士山とともに、波は北斎が生涯をかけて追い続けたモチーフだったのです。
新井光史が花で見立てた「北斎の波」
「今回はいつもとは逆に花材から発想して、北斎の『波』をモチーフにすることを決めました。ほとんどアレンジメントでは使わない『ソテツ』の葉を見ていたら、湾曲したハリのある姿が波形に見えてきたのです」
ここで使用した花材はソテツとカスミソウ。そして、器全体に敷き詰められた白砂利だけ。
「波飛沫は『カスミソウ』にしよう!と直ぐにひらめきました。なにより、あの波の部分だけを花にしたら、とても面白いと思って」
うねりから波飛沫へと波が変化していく様子がソテツの葉で表現されています。
「ソテツの葉を一本ずつ白砂利の中に挿しています。カーブさせた葉とストレートの葉がグラデーションになるように、ピンセットを使ってコツコツ挿しました。
人によっては気が遠くなるような作業かもしれませんが、自分は楽しんでできるのです。『神奈川沖浪裏』の版木を彫った人も同じような気持ちだったかもしれませんね(笑)」
波飛沫はカスミソウの先端だけを摘み取り、束ねたものをいくつも作って挿していることがわかります。肉眼で見ても、白砂利と同化していてとても不思議。
「カスミソウは繊細であまり個性がないように感じる花ですが、使い方次第で印象が変わります。ギュッとまとめることで、点が立体に見えるような効果が出せたと思います」
もうひとつの「波」の舞台裏
先ほどのアレンジメントとは全く印象の違う作品を制作します。
手前の器に敷き詰められているのは「ヒカゲカズラ」。そこに「ハラン」を挿していきます。
大胆にハランを挿し、「カラー」や「ナルコラン」が加わります。
新井が手にしているのは「アジサイ」。そのまま挿すのではなく、ギュッと束ねてから使用するようです。
完成、もうひとつの波に見立てたアレンジメント
「先に作ったアレンジメントは『神奈川沖浪裏』の波をイメージしていますが、こちらは北斎が40代に描いたとされる『賀奈川沖本杢之図』の絵をイメージしました。
『神奈川沖浪裏』とは異なる波の表現がユニークな作品で、『ハラン』を使ってその波に見立てています」
『賀奈川沖本杢之図』(1804-07)頃は洋風風景版画のシリーズとして描かれ、西洋風の表現を意識した、北斎の異色作。
ハランやナルコランの斑は絵の中の波の表現とそっくり。ヒカゲカズラはその波のうねりのように見えてきます。さらに、海水を思わせる「ラケナリア」や「リューココリーネ」が彩りを添えています。
「カラーのすっと伸びた花弁を波頭に見立てました。奥に見えるフリルのようなアジサイは小さい波を、スモークグラスや粒のような花のラケナリアは水飛沫をイメージしています」
葛飾北斎の波に見立てたアレンジメントはいかがでしたでしょうか。
今回は「波」にフォーカスをあてた、全く異なる二つの作品ができあがりました。
一つは『神奈川沖浪裏』をイメージして2つの花材だけで作られた、平面的なアレンジメント。そしてもう一つは”西洋風”に描かれた『賀奈川沖本杢之図』をイメージしてさまざまな花材が使われた立体的なアレンジメント。
どちらも北斎の作品とあわせて鑑賞すると、「あぁなるほど!」と思わせてくれる、ユニークな作品でした。
「夢の花屋」ではトップデザイナーならではの、鋭い観察眼や丁寧な仕事が形になる様子まで含めて、お伝えしていきたいと思っております。
こんな見立てが見てみたい…というご希望がございましたら、ぜひメッセージフォームからお便りをお寄せください。
第三十六話予告
次回は志村紀子が登場します。6月1日(日)午前7時に開店予定です。
新井光史 Koji Arai
神戸生まれ。花の生産者としてブラジルへ移住。その後、サンパウロの花屋で働いた経験から、花で表現することの喜びに目覚める。 2008年ジャパンカップ・フラワーデザイン競技会にて優勝、内閣総理大臣賞を受賞し日本一に輝く。2020年Flower Art Awardに保屋松千亜紀(第一園芸)とペアで出場しグランプリを獲得、フランス「アート・フローラル国際コンクール」日本代表となる。2022年FLOWERARTIST EXTENSIONで村上功悦(第一園芸)とペアで出場しグランプリ獲得。2025年3月に行われたFlower Art Award2025でも川口太聞(第一園芸)とペアで出場しグランプリを獲得した。 コンペティションのみならず、ウェディングやパーティ装飾、オーダーメイドアレンジメントのご依頼や各種イベントに招致される機会も多く、国内外におけるデモンストレーションやワークショップなど、日本を代表するフラワーデザイナーの一人として、幅広く活動している。 著書に『The Eternal Flower』(StichtingKunstboek)、『花の辞典』『花の本』(雷鳥社)『季節の言葉を表現するフラワーデザイン』(誠文堂新光社)などがある。