夢の花屋

週末、自分のために花を飾りましょう。
花を手軽に楽しむコツを第一園芸のフローリストがご紹介します。

第四十一話 ルネ・マグリットの《空白の署名》に見立てる

2025.11.01

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この世にある美しいものを花に見立てたら──
こんな難問に応えるのは、百戦錬磨のトップデザイナー。そのままでも美しいものを掛け合わせて、新たな魅力を引き出す――それが夢の花屋です。
第四十一話はルネ・マグリットが描いた《空白の署名》に見立てたアレンジメント。手掛けるのは第一園芸のトップデザイナーであり、フローリスト日本一にも輝いた新井光史。
ここからは花屋の店先で花束の仕上がりを待つような、わくわくした気持ちでお楽しみください。

ルネ・マグリットの《空白の署名(The Blank Signature)》とは

シュルレアリスムは、1920年代にフランスで始まった芸術運動です。
夢や無意識といった、理性ではとらえきれない領域を芸術の主題として扱い、現実の奥に潜むもうひとつの世界を描こうとしました。
伝統的な写実とは異なり、日常に潜む不条理や違和感を挿し込むことで、私たちの現実認識そのものを揺さぶる試みでもあります。

ルネ・マグリットは、その中でも特に「見えること」と「意味すること」のズレに注目した画家です。彼の作品は、シュルレアリスムに多く見られる幻想的な筆致ではなく、あくまで現実的な描写を用いながら、画面に矛盾や不協和を忍ばせる手法をとりました。

《空白の署名》は、森の中を馬に乗って進む女性を描いた作品ですが、人物と背景の木々との位置関係に整合性がありません。馬の一部が木の前にあるように見える一方で、別の部位は木の背後に隠れているように描かれています。
これは単なる視覚の遊びではなく、「見えているものが必ずしも真実とは限らない」というテーマを示唆しています。
マグリットは、あらかじめ明確な意味を提示することなく、観る者に解釈の余地を残す表現を多く用いました。その姿勢は、作品のタイトル《空白の署名》にも通じています。
署名が空白であることは、作者の意図を明示しないという選択であり、観る者自身が意味を見出す余白を残しているのです。

▶《空白の署名(The Blank Signature)》はナショナル・ギャラリー(ワシントン)のサイトでご覧いただけます。
https://www.nga.gov/artworks/66422-blank-signature


新井光史が花で見立てた《空白の署名(The Blank Signature)》

「『夢の花屋』の中で、いつか挑戦してみたいと思っていたテーマのひとつが〈シュルレアリスム〉でした。ダリにするか、マグリットにするか…かなり迷いましたが、最終的にマグリットの《空白の署名》を選びました。
この作品は、別名《白紙委任状》とも呼ばれており、馬に乗る女性と木々の一部が入れ替わっているように見える、奇妙で印象的な構図が特徴です。
絵画そのものを花に置き換えるのではなく、自分なりの解釈を加えながら、今回の見立てを組み立てました」

《空白の署名》は、マグリット晩年の作品で、1965年に描かれた油彩画です。季節がはっきりしない林の中を、紫の服をまとった女性が栗毛の馬に乗って進む姿が描かれており、縦に伸びる木々のラインが画面に静かな緊張感を与えています。

「この作品が公開されるのは11月なので、秋ならではの花材を選びました。絵の中で象徴的な木々に見立てたのは、紅葉した葉を貼って作った板状のオブジェです。白いコスモスは、馬に乗っている女性をイメージしています。よく見ると淡い紫の服の襟元には白いブラウスがのぞいていて、手には白い手袋も。そんな細部の印象から、この花を選びました。」

この女性は、飄々とした表情で描かれており、感情が読み取りにくいのも特徴です。その曖昧さこそが、鑑賞者の捉え方に委ねるマグリットならではの表現といえるでしょう。

「斑入りの〈バンダ〉は、淡い紫の服をまとった女性に見立てました。ブロンドの髪と白い肌がどこか貴族的で、バンダが持つ高貴な雰囲気と響き合っているように感じたからです。
〈スモークツリー〉は、その女性が醸し出す気配――静かで、どこか距離を感じさせるような空気感を表しています」

「《空白の署名》に使われている色は、木々の緑、女性の服の淡い紫、馬の茶色、足元の黄褐色の草など、限られた色味で構成されています。全体としては彩度が低く、控えめな色調の作品です。
そこで今回は、自分なりの解釈で、秋らしい華やかな色合いを加えてみました」

「《空白の署名》では、木々の足元には草しか描かれていません。そこで今回は、その静かな描写とは対照的に、栗、ほおずき、姫リンゴ、ローズヒップなど、色鮮やかで形もさまざまな実ものを集めました。
秋の豊かさや生命力を、作品の余白に添えるような気持ちで選んでいます。」

鮮やかなピンクの茎と緑が特徴的な〈ヨウシュヤマゴボウ〉をはじめ、〈プルーン〉〈柿〉〈唐ゴマ〉など、多彩な実ものが見られます。シンプルな構成の《空白の署名》に対して、複雑な色彩と形を取り入れることで、作品が持つ不思議な世界観を花で表現しているように感じられます。

今回の見立ては、1枚目の画像でご紹介した完成形に至るまで、いくつかの過程を経て構成されています。
ここからは、そのプロセスをご紹介いたします。

「最初は3つの器を階段状に並べました。これは、《空白の署名》の構図に近づけた構成です」

「次は、器を水平に並べてみました。まだすべての花材は入れていません。中央に横たわっているのは観賞用の〈カボチャ〉です。意外性のあるものを加えたくて、あえて個性的なものを選びました」

「こちらが、1枚目でご紹介した完成品です。最終的に〈スモークツリー〉を加えたことで、全体の雰囲気が大きく変わりました。
マグリットが描こうとした『見えているもの』と『見えていないもの』――その境界に少しでも触れられていたら、うれしく思います」

今回の主な花材:オンシジウム、スモークツリー、アマランサス、サレヤロマン、プルーン、唐ゴマ、バンダ、ローズヒップ、ヒペリカム、ヨウシュヤマゴボウ、柿(実・葉)、マリーゴールド、コスモス、ベニスモモ、ケイトウ、姫リンゴ、リコリス、モカラ、ホオズキ など

 

マグリットはこう語っています。
「形は、どんな理由でも物のイメージの代わりになり得る。ここでは、非常に混乱を招く形の遊びが展開されている」
A shape can replace the image of an object for any reason. A very confusing play on shapes here…*

この言葉は、今回新井が花で見立てた《空白の署名》の構図にも通じるものがあります。
馬と木々が視覚的に交錯し、どこまでが現実で、どこからが錯覚なのか。見る人の感覚を揺さぶるような仕掛けが施された絵画です。

アレンジメントでは、マグリットの“形の遊び”に呼応するように、実ものや枝もの、輪郭の曖昧な花材を組み合わせて構成されています。
「意味の揺らぎ」や「違和感」を取り入れることで、マグリットの世界観に寄り添う構成となっています。

形がただの形としてではなく、見る人の想像を引き出すきっかけになる。
新井は、そうした視点を花という素材に託したのではないでしょうか。

*マグリットのエッセイ《Les mots et les images(言葉とイメージ)》より


《夢の花屋》でご紹介している新井光史が名画に見立てた作品
第三十九話 アンリ・ルソーの《夢》に見立てる
第三十七話 アングルの《泉》に見立てる
第三十五話「北斎の波に見立てる」


「夢の花屋」ではトップデザイナーならではの、鋭い観察眼や丁寧な仕事が形になる様子まで含めて、お伝えしていきたいと思っております。
こんな見立てが見てみたい…というご希望がございましたら、ぜひメッセージフォームからお便りをお寄せください。

第四十二話予告
次回は志村紀子が登場します。12月1日(月)午前7時に開店予定です。

新井光史 Koji Arai

神戸生まれ。花の生産者としてブラジルへ移住。その後、サンパウロの花屋で働いた経験から、花で表現することの喜びに目覚める。 2008年ジャパンカップ・フラワーデザイン競技会にて優勝、内閣総理大臣賞を受賞し日本一に輝く。2020年Flower Art Awardに保屋松千亜紀(第一園芸)とペアで出場しグランプリを獲得、フランス「アート・フローラル国際コンクール」日本代表となる。2022年FLOWERARTIST EXTENSIONで村上功悦(第一園芸)とペアで出場しグランプリ獲得。2025年3月に行われたFlower Art Award2025でも川口太聞(第一園芸)とペアで出場しグランプリを獲得した。 コンペティションのみならず、ウェディングやパーティ装飾、オーダーメイドアレンジメントのご依頼や各種イベントに招致される機会も多く、国内外におけるデモンストレーションやワークショップなど、日本を代表するフラワーデザイナーの一人として、幅広く活動している。 著書に『The Eternal Flower』(StichtingKunstboek)、『花の辞典』『花の本』(雷鳥社)『季節の言葉を表現するフラワーデザイン』(誠文堂新光社)などがある。

Text・Photo 第一園芸 花毎 クリエイティブディレクター 石川恵子