第二十六話 おもうおもみ
2022.10.23
知study
命は重いと思う。
観念的な重みではなく質量としての重みだ。
思うだけで、科学的な根拠は無い。
これくらいなら片手でいけるだろうと思い持ち上げた鉢が想像以上の重量で驚く時。根が土を食い尽くし詰まりに詰まった根鉢に執念すら感じる。
剪定で鋸を入れた枝の刃が進むにつれてじわじわと肩に圧し掛かってくる重みを押し返しながら鋸を動かす時の真っ向勝負感。
鉢底から突き抜けて下の土にしがみついたような根など、このまま大地から引きはがしてよいものかとたじろいでしまう。
そういえば年の離れた弟がこの世に現れ抱いた時、想像していたよりも重かった。
その重さ約3,000~4,000グラム。
産まれたての赤子の重さにヒトとしての重さが重さなり、諸々を斜に捉えがちな思春期の私は妙な納得をした。
それから今に至るまで、己という肉といつの間にか背負い込んでいる無駄な感情などを引き摺りながら生きている。重力は等しくこの地球上の物にかかるのだが、私は私の身体と心が重い。
植物が、
根を張ることの尊さを、
根を張ることの強かさを、
根を張ることの執念深さを
二の腕に感じながら、この命の強さと重みをどのように受け止めればいいのか、考えれば考えるほど恐ろしくなってしまうので、いつも思いを振り捨てるように力づくで作業することになる。
造園業に欠かせない道具にチェーンブロックというのがある。
チェーンブロックとは、井戸の滑車の代わりに歯車装置、縄の代わりに鎖、作業を停止する制動装置が備えられたテコの原理を利用した機器だ。本体だけでは使うことはできず、天井や三脚に吊り下げて使用する。
樹木を植え付ける時、または移植のために掘り上げる時、庭石を動かす時等にこのチェーンブロックが活躍する。動かしたい対象物にバランスよく三脚を建て、チェーンブロックを設置して木の幹や根に掛けたロープをフックにかける。ジャラジャラと鎖を引く音に合わせて、対象物はゆっくりと大地から離れていく。
数トンもある樹木が人の両手の力だけで動いていくのを眺めていると、バチカン市国バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇にミケランジェロによって描かれたフレスコ画「アダムの創造」を思い出す。神によってアダムに命が吹き込まれる瞬間の指と指の触れそうで触れ合わぬあの部分。
渋谷の植物園解体に際し、お世話になった造園屋さんが1株でも多くの植物を生き延びさせようと苦心してくれた時も、狭い空間で重機を用いずに少人数で作業するのに適したチェーンブロックだった。
推定1トンあったリュウケツジュの根の周りを掘り、根巻シートと呼ばれる包帯のような布で根を巻き包み、折れやすい枝を地面に接触させないように、地面に対して垂直に持ち上げる瞬間に立ち会った。
足元がふっと浮くような感覚。
それは、あまりにも軽々と私の手元から1本の木の命と責任が離れたことを自覚した瞬間だった。
軽くてかるくてカル過ぎて、泣けるほど重かった。
一般的に樹木が根を張る広さは、その枝ぶりの広がりは樹冠*と同じ位だとされているが、それは伸び伸びと生長できる自然の状況だけのことだ。
都市部の公園や街路では、地中に埋められた人工物や地上部に貼られたブロックやタイルなどに阻まれて根が広げられないのに、地上部ばかり大きくなってアンバランスになり、台風が到来したりすると転倒したりする。倒れた樹木を移動させようとしても簡単には動かせない。
自力で立っていた時には重力の存在など感じさせなかったのに、一度倒れてしまうと起き上がるのも立て直すのも難しいものなのだ。ちょっと一休みなどと思って寝っ転がってしまうと、右の物を左に動かすのさえ面倒になるのは私も同じなのだが。
*樹木の上部、枝や葉の集まった部分
生まれた土地を離れ、育った土地とも別れ、学んだ土地に居場所が見いだせず、魂を埋めた場所は永遠に還らぬ土地となった私はまた命を燃やすための土地を探しているが、未だ終の住処に辿り着いたと感じぬままでいる。
植物は種子として辿り着いた場所に根を下ろし芽吹く時、何か思うところはあるのだろうか。
植物には脳がないのだから思考とか感情とかいうものは無いとされているので馬鹿らしい疑問だとは自分でも分かっているが、しかし、落ち着ける場所や此処で良しと落とし所のある場所を、帰る場所を延々と探し続けている回遊魚の如き私には不意に与えられた場所に深く根を下ろし生きることの理不尽さが恐ろしい。