庭の中の人

ガーデナーや研究者、植物愛あふれる人たちが伝える、庭にまつわるインサイドストーリー。

第五十六話 君が笑えば私も笑う

2025.05.21

study

春の山を表現する「山笑う」という言葉がある。それを知ってからずっと「春になったらたくさん花が咲いたり葉っぱが出たりするのを山に棲んでいる生物たちも嬉しくなって笑いたくなり人間もニコニコするから」なのかと勝手に思い込んでいた。

この4月から神戸の山の上に位置する神戸市立森林植物園に席を置くことになった。毎日必死で坂道をくだり、イノシシが掘り起こしたでこぼこを踏み越えて山道へ入っている。誰とも会わず、自分の荒い息遣いと鳥のさえずり、何か小さい生き物が動く音だけを聴きながらもくもくとまだ歩いたことのない道を1日1本ずつ踏破しようとしている。そうするとだんだん周囲の樹木の変化に目が止まるようになってきた。
昨日調べた、幹に特徴のある樹木が今日は最初から名がわかって目につく。学校に入学して一人も知り合いがいなかったのが、少しずつ皆の名前と顔を覚えて仲良くなっていくような気分だ。最初の1週間は森も見えず木も見えずだったのが、次の1週間で少し木が見えるようになり、さらに1週間経って最初の週との違いに気付けるようになっていた。友達100人できなくてもいいけれど、まだまだ植物の名前は知りたい。
そして、山が笑うという感覚はそこに棲まう生き物達が春だ春だと喜んで笑うのではなく、木々が芽吹き動きだす様が最初は静かに微笑んでいて、どんどん葉の色が開いていけばガヤガヤしはじめ、みどりといっても濃淡様々な緑がひしめき合ってワラワラと伸びていくのが笑うようだと感じた。

春から初夏にかけての植物の生長の速さと色は驚きの連続だ。植物の葉は基本的に緑色であるものだと認識しているが、秋の紅葉ではない時期に赤や茶色の葉が出る植物もある。
『ノムラモミジ』は日本庭園で植栽されるポピュラーな樹木だ。新芽から赤い葉が出て秋まで楽しめるのが特徴だが暖地では夏に葉が青くなってしまうこともあるので、私は紅葉が美しいといってもなんとなくくすんだ赤色の葉しか印象に残っていなかった。
そもそもノムラという名前は「野村」など人名が由来ではなく「濃紫」を意味する。そんなに濃い色の葉が出るのだろうかと思っていたのだが、4月下旬に他の樹木の若葉が若々しい緑色の葉を広げていく中で目が覚めるような赤色の葉が広がっているのをみて納得した。この色がさらに濃くなり紫に近いまでの赤紫色になれば素晴らしいだろう。

新しい葉を緑ではなく赤色系で出す樹木は、『ベニカナメモチ』や『アカメガシワ』などが代表だ。新芽の中の赤色はアントシアニンという色素によるものだが、赤色は虫には見えにくく鳥には見えやすい色だという。柔らかくておいしい若い葉っぱを虫に食べられてしまわないように赤くするのはどうやら防虫対策として、さらに紫外線対策にも有効らしい。
上司に「シダは素人には難しい植物だけど1つだけポイントを覚えておくと名前がわかるシダがあるよ」と教えてもらったのは『ベニシダ』。
「園内で赤い葉っぱのシダを探したらいいから、行ってこい」と言われて歩き出し、名前通りの葉を見つけた時には分かりやすいヒントに笑ってしまった。青々としたコゴミは食欲がわくが桃色はなんだか食指が動かないので虫の気持ちが少しわかる気もする。

出勤日には必ず園内に出て植物を観察しようとしているのに変化が早すぎて、私の目では間に合わないから休み明けにはいつも慌ててしまう。花が咲いて初めてそこにいたのだと気づいたり、図鑑で見たことのある形状になってようやく以前から知っている植物じゃないかと自分に呆れる始末だ。
夏になると大人の顔を覆うくらいのサイズになる『ヤツデ』の葉も最初は赤子の手位の大きさだ。深い緑色が春の日差しにピカピカ光っているのが幼い子がケラケラ笑い転げているようにみえた。

流れ落ちるように咲いた『オニグルミ』の雄花は赤や黄色の華やかな花でなくとも豪華じゃないか。和装の装飾品として使われるビラかんざしのような花は風に花粉を乗せて飛ばし、受粉を促すのに適した形。今はしゃらしゃらと柔らかく揺れているけれど、夏になれば鈴なりに丸い実を付けるだろう。

花が咲いたから花見に行こう、葉が色づいたから紅葉狩りに行こうと季節の大きな変化を楽しむのもいいが、ずっとそこにある植物と心通わせるのもいいものだ。
小さな変化に気づくようになるためには、対象物を繰り返し見るしかない。手に取って詳しく見なくてもいいので毎日なんとなく眺めているうちに、ある日突然違いに気づくようになれる。「見る目」も育つのだ。わざわざ山や野に出て植物を観察しなくても、毎日歩く道端に生えている樹木を1本だけ気にかけたり、同じ花壇でも季節によってどんな植物が芽生えては茂り散っていくのかを見るだけでもよい。
「山笑う」という言葉は俳句の春の季語になっているがもとは中国の山水画家の画論だそうだ。笑うのあとは、山滴る、山粧う、山眠ると続くのだが、私は今年の間にどれ程の変化に気付けるだろうかとワクワクしている。来年の今頃、森の中で木々とともに芽吹きながら笑いたいものだ。

宮内 元子 みやうち ちかこ(文・写真)

神戸市立森林植物園 勤務
元 渋谷区ふれあい植物センター 園長
植物園の温室に住みたいという欲望を拗らせて現職。
今行きたい植物園はドイツのダーレム植物園。

2022年12月からお楽しみいただきました、宮内元子さんの「庭の中の人」は第五十六話をもって完結いたします。長らくの間ありがとうございました。