第二十九話 腕を伸ばしたその先に
2023.02.19
知study
「クラウン・シャイネス」をご存じだろうか。主に熱帯雨林のフタバガキ科の樹高50m前後にもなる巨大な樹木の森で確認されている現象で、和訳するならば「樹幹の遠慮」と表現するといいだろう。
木々が伸びるにつれ頂上の樹冠にしか植物の生長に必要不可欠な日光は届かなくなる。樹冠が重なると下部の枝は枯れてしまうが、それぞれの木々の樹幹が重なり合わないように枝葉を広げることで共存が可能となる。地上から空を見上げると、まるでなわばりが明確に示されるかのように樹冠が綺麗に分割される様子はまさに「遠慮深い樹幹」なのだ。
真相はいまだに解明されてはいないものの、クラウン・シャイネスができる原因として枝が枯れる以外にも、風で木々が揺れた時枝がぶつかりあってしまうからというのも勿論あるが、化学物質などによる木々たちの静かなコミュニケーションを通じて、枝が害しあう前に生長を止めている可能性もあるらしい。この現象はアジアの熱帯雨林で注目されてきたが、日本国内でもタブやスギの林などで見られることがある。
一方で植物が分泌する物質の中には他の植物の生長を抑えたり、動物や微生物を防いだり、あるいは引き寄せる効果のあるものもあり、それらの効果の総称をアレロパシーという。
河原や空き地を飲み込んでしまうセイタカアワダチソウの繁殖力の強さもアレロパシーのおかげだ。ちなみにセイタカアワダチソウが喘息や花粉症の原因と言われることがあるが、(花粉を運ぶのは昆虫)風で飛ぶのに適していない構造なので病害とは無関係だとされている。
また、桜餅に欠かせないサクラの葉の芳香はクマリンという物質によるもので、土壌などに残留し他の植物の生長を抑制する効果がある。
20年前に通った校舎と寮が取り壊されて更地になり、ついに売却されると知り、思い出の時間を振り返るために畑の中の道を辿った。
寮で共同生活を送りながら植物学や花壇設計、蔬菜(そさい)学や果樹園芸、さらには畜産などを学びつつ朝と食前に祈りを捧げて暮らすことは、年頃の娘らから溢れ出す膨大なエネルギーがそこら中に充満して、箸が転がれば笑うだけでは済まされない非日常を出鱈目に積み木のように重ねて家にしたような毎日だった。
ラジエーターが加熱され始めるとカンカンカンカンと音がすること、軍手を着けた手で草むしりしたら手の甲に土埃が網目状につくこと、流星群を友達と待っていると少しだけ寒さが和らぐこと。
青春時代に学んだことはそんなことだ。
そもそも自己を、他者を、介在することで構築してこなかった私にとって一部屋の中に4人で暮らす月曜日から金曜日の5日間は絶望の連続で、今考えればそれに付き合わされた先輩や後輩2人と同輩1人にとっても地獄のような時間だったに違いない。あの時私の配慮の無さで深く傷つけた人達に今更ながら申し訳なかったと思っている。
ほんの些細な事であっても言葉にして感謝すること、全ての感情に赦すという終わり方で対処することを受け入れること。
誰かと暮らすというのはこの二つをどれだけ受け入れ難くても飲み込むしかない。
娘達から放たれるエネルギーを寮母や講師たちは規律に変えて押し返し、人の形の殻をかぶったカタツムリのような私は同輩達が打って伸ばして肉をのせて人間にしてくれた。
あの2年間がなければ今でも私は人の皮を被ったカタツムリのままだったろう。
あの学舎で説かれる学問が点数を競い、絶対に正しい答えを導く学問であったら、あの場は成立しなかっただろうとも思う。
一粒の種子から芽を出し、花を咲かせ、生物を養う植物と向き合い、花を愛で、鶏が産んだ卵を一つずつ集め、脱走した豚を追いかける日々だからこそ私たちは無邪気に一喜一憂できた。
同じ釜の飯を食べ、肩を寄せ合いながら髪を洗い、同じ部屋の中で違う夢をみて、傷つけあったり慰めあったりしながら、大人になるための準備をしていた。
そして、クラウン・シャイネスとアレロパシー効果が十分に発揮された少女たちは乙女になり、女性になって広い世界へ旅立っていった。
伸ばした腕の先には必ず誰か居るという安心感と、気軽に発した言葉が鋭く突き刺さる恐怖は背中合わせで「遠慮の腕」を広げて生きることがどれほど大切なことなのかが叩き込まれたことこそが、私にとって最大の学びだったのだろう。
木は一度根を下ろすと移動することは難しくなり、生涯をその場所で過ごすことになると、木とはいえ、ご近所付き合いには気を配ることも多ければ、あまりお近づきにはなりたくない存在も居ることだろう。
人は堂々と枝葉を伸ばしそびえる大木の下に立つと、自分の足で動き回り、時にはやりたくない事柄や相性の悪い人から逃げ回ることもできるのは恵まれているものだなと思ったりする。
木は木で、よくもそんなに動き回るものだと思いながら私を眺めていたりするのだろうか。