庭の中の人

ガーデナーや研究者、植物愛あふれる人たちが伝える、庭にまつわるインサイドストーリー。

第三十九話 小さく静かな者たちの世界

2023.12.22

study

せっせと歩くアリや、絶え間なく寄せては返す波、欠片から光がこぼれる鉱物を眺めていると突然「あ、私はとても小さい存在なのだな」と思うことがある。
私は蟻には関係ないイキモノだし、波にとっては自然の摂理で、鉱物にとっても同じだろう。
そう思うと身の回りにいる、今まで目の届かなかったところで生きている者たちが気になりだす。生きものたちの存在は見た目とは違って壮大で、細やかな動きですらダイナミックだ。しかし、土の中の世界や花を胞子で増やす生物にはなかなか想像が及ばない。

水戸の植物園の中を歩き回るようになってから観察する機会が増えたのが地衣類だ。園内をじっくり見ていると樹の幹に貼り付いた苔のような姿のものがいる。他にも石やコンクリートに広がるカビや汚れのような姿のものもいて、それが分類学上で何に属している生物なのかよく分からない存在だった。

雨が降った後、日当たりの悪い芝生に水で戻したキクラゲかワカメのようなものが広がることがある。昔からあれを見た目のとおり「増えるワカメ」と私は呼んでいたが、食べる気にはなれないまま近寄らずにきた。
園芸相談を受けていると「樹の枝に苔が生えてくるが、樹木本体に害が及ぶのではないか?駆除したほうがいいのか?薬は何かよいのか?」という相談が寄せられる。
「樹木に寄生している訳ではないので樹が弱ることはありません。空気のきれいな場所の見分けになる種類もあるので、見た目が気にならなければそのまま放置しても問題ありません」と答えるのが定型なのだが、そもそも自分もあれは蘚苔類なのか植物なのか菌類なのかよくわかっていなかった。
そもそも地面の衣の類という呼び方も、生命体なのか、砂や水のような無機物なのかよくわからなくて面白い。

分かっているようで知らない不思議な存在だった地衣類だが、しっかり見てみると実は身近なところにけっこういるのだ。梅林のウメの枝には灰緑色のカサカサしたシールのような地衣類がたくさん広がっていて、雨の後はちょっと緑色が濃くなっている気がする。
ケヤキの幹には幼児が練習した文字のような模様で南部せんべいを薄くしたようなのが貼り付いている。1年かけて眺め続けているが、著しく生長している気配もないし、何か胞子を飛ばすための器官が伸びているのも見たことがない。

気になるのでこの機会にしっかり知ってみようと思い、手元の文献を読んで驚いた。地衣類は菌類と藻類の共生している「地衣体」という体のつくりで、菌類は藻類に対して紫外線や乾燥などから守られた家を提供し、藻類は菌類に光合成によってつくられた栄養を与え、補い合って生きているということだ。
更に地衣類は年間に数mm程度しか生長しないが中には何十年も、もっといえば推定数百年という寿命で生きる種類もある。

地衣類の知識を携えて梅林を歩いてみれば、幹に貼り付いたウメノキゴケの一種を眺めると「よくもここまで大きくなったな」と声を掛けたくなる。お正月のお飾り用に生け花の花材として苔梅や苔松が販売されるが、生産しているのは茨城と長野の限られた数件の農家さんらしい。そして「増えるワカメ」ことイシクラゲは地衣類ではなく藻類で食べようと思えば天婦羅や炒めものにできるらしい。

植物園を管理していると、こちらとしては生やす気や育てる気はないのに出てきてしまう生物もある。
キノコは来園者の方々には人気だけれど、植物を適正に管理する時には頭を悩ます存在で、植栽展示している樹木にキノコがはえてしまうと本当に困るのだ。
サルノコシカケのようなキノコが幹からモリモリと皿のような傘を広げて重なる様子は面白いが、生きている樹木にとっては致命傷で、幹の内部がどんどん浸食されて倒木の危険が出てくる。
早期に発見できればその部分だけえぐり取るなどの治療を施すこともあるが、人間の目の届かない幹の内部や地上部だけではなく、根っこまで菌糸は広がっていて手遅れの場合は安全確保のために伐採することになる。
伐採した樹木は転がしておくといつの間にか苔むしたり別のキノコが発生する。管理する側として生きている樹木にはキノコが生えて欲しくないのだが、伐採した樹木を細切れに処理するしんどさを思えばキノコが分解して土に戻してくれればありがたい、という矛盾だ。

大人3人で手をつないで幹回りを囲むような太さのユリノキからキノコが発生して切り倒したのが昨年の秋。1年経った今、残った切り株を指で押してみると、あんなに堂々とそびえ立って固かった幹や地際の根がフニフニと指が沈む弾力になっていて、剥がれかけた樹皮の内側にも新たにキノコが出てきているのが見えた。

巨人ゴリアテは人間が放ったたった1個の石を額に受けて昏倒したが、巨木を倒すきっかけとなったのは空中を漂ってやってきた目に見えない胞子だったのだと考えると、小さき者の秘めたる力の途方もない威力に目がくらむ。

樹木もキノコも生きていて、人間の都合など関係なくどの命も平等だ。今もその切り株はどんどんキノコに浸食されていて、これからどれ位の時間を経て全て土に帰るのかずっと眺めていたい。

小さな赤ん坊から、みるみる内に成長する人間を後目に、音もたてずゆっくりのんびり生長する地衣類や、密やかに誰も知らない地下で広大に広がる菌類。広くて深くて大きい世界がちっぽけな私を包み込んでいる。そんな此の世でさまざまな命と共に生きられるのがとても嬉しいのだ。

宮内 元子 みやうち ちかこ(文・2,3,6~8枚目写真)

水戸市植物公園 勤務
元 渋谷区ふれあい植物センター 園長
植物園の温室に住みたいという欲望を拗らせて現職。
今行きたい植物園はドイツのダーレム植物園。