庭の中の人

ガーデナーや研究者、植物愛あふれる人たちが伝える、庭にまつわるインサイドストーリー。

第三十八話 あんなこといいな

2023.11.22

study

誰にでも行ってみたいけれど行けない場所や、やってみたいけれど実現はなかなか不可能な事柄があるのではなかろうか。

私の場合、エレベーターの非常ボタンを押してみたい。
緊急応答に繋がるオペレーターの方はどんな方なんだろう?

サイレンを鳴り響かせながらぶっ飛ばしている緊急車両に何事もない時に乗ってみたい。車内ではどれ位の迫力でサイレンが聴こえるのだろうか。

電信柱に小さくついている杭のような足場を使って上の方まで登ってみたい。
見える景色に想像はつくが、梯子を上るのとは気分が違う気がする。

昔のコメディ映画みたいに大きな大砲で打ち上げられてみたい。
ドッカン!ポーン!私の登場!

空港の荷物が出てくるターンテーブルに乗って荷物と一緒に流れてみたい。
暖簾のようなものを潜り抜けて何処に行くか分からないドキドキを味わいたい。

あんなこと、こんなこと、やれたらいいな。

植物園の温室の上部についている細い足場に上がってみたい。
これは時々お客様からの要望として寄せられる。その気持ちはよくわかる。私もどこの植物園に行っても、足場を眺めては歩く自分を想像する。
自慢だが、中の人特権で関係者は管理のために上がることができるのだ。いいでしょう。

あの足場は屋根歩廊(キャットウォーク)と呼ばれていて、温室の窓の開閉装置の管理や清掃、また植物の管理のためにある。
窓面に沿って天井ギリギリで設置されていることが多いので頭上が狭くて歩きにくく、天気の良い日は熱気がこもってとても暑い。日差しを少しでも遮らないように、足元はエキスパンドメタルなど格子状の資材が使われていて地上が透けて見えるし、手すりも最小限しかないので高い所が苦手な方にはとても苦痛な場所だと思う。しかし、温室の中を見下ろすことができるので樹木の枝ぶりや葉の重なりがよく見える。生長を観察したり地上からでは気づきにくい蕾を見つけたり、開花した花を観察するのに適している。

人工的に作り上げた空間でも植物たちは競争しながら日の光に向かって生長する。温室のガラスを突き破りそうな勢いで伸びてくる植物たちの生命力を一身に受け止められるので、植物と高い所好きにはたまらない場所だ。

植物園や自然公園には樹上散策路(ツリートップウォーク)と呼ばれる、高所から樹上を観察できるエリアが設置されていることがあり、温室のキャットウォークを歩く体験とは少し違うが樹木を眼下に眺めを楽しむこともできる。
多くの草本類ならば平均身長の人間でも植物の頂点から地際まで簡単に観察できるが、大きく生長してしまう樹木の頂点や枝先に咲く花、森の全体を観察することはなかなか難しい。

シンガポールの街外れにある広大な貯水池地域には保護された熱帯雨林があり、長い吊り橋がかかっている。私が訪れた時には吊り橋の入り口に猿が陣取っていて門番のようだった。猿の動きを確認しつつ、目を合わさないように進むと、森の中からすこんと抜けた空の上に出た。
全長250m、高さ25m。人1人が進める幅の吊り橋は一方通行で引き返すことはできないので、高い所が苦手な方には絶対お勧めしない。

森を見下ろしてみると、木々の葉には緑といっても様々な色や形があることがよくわかる。さらに芽吹きたての新芽や開きたての若葉と成熟した葉では同じ植物でも色が違うことがある。目を凝らすと太い枝の間に着生したランやシダ類も見える。
日本では化粧鉢に優雅に植え付けられて花茎がワイヤーで仕立てられたランが、ここではぐにゃぐにゃと根を伸ばし、花も四方八方に自由に向いて咲いている。
巨大なビカクシダが重なり合い、鎮座しているのを目の当たりにした時は自然の姿は美しさを通り越して恐怖まで感じた。

私の周りの人に「やってみたいけどやれないことある?」と訊いてみたところ「花に埋もれてみたい」という声があった。バラの花びらを浮かべたお風呂や寝床に憧れているらしい。

栃木の植物園が今年は予約制でバケツ1杯のバラの花びらを頭からかぶれるローズシャワーというプログラムを提供していた。
写真を見ると皆さん満面の笑みでバラを浴びていて微笑ましい。バラの管理では花が散る前に摘み取ることで病害虫を防ぐので、提供側はまだきれいなバラの花びらを有効活用できるし、お客様はバラまみれの夢が叶うのだ。

この世には到底無理だと思っていることでもひょんなところで実現可能なタイミングが転がっているようだから、希望はできるだけ口に出して誰でもいいから伝えておくにこしたことはないのかもしれない。

ここに書いておけばいつか「私もそれやりたい!」という同志に出逢えそうな気がするので妄想は垂れ流しにしておこう。

空港の誘導路と滑走路の間に島のようにある草原地帯。どこの空港でも滑走路の間にぽかんぽかんと芝生の部分があって、妙に優雅に見える。
日本の空港だと春にはシロツメクサやムラサキツメクサがぼんぼりのような花を咲かせ、初夏にはチガヤの白い穂が風に揺れ、秋にはセイタカアワダチソウが繁茂しているあの草むらでピクニックがしたい。
肌触りのよい毛布などを敷いて、美味しいお茶を片手にサンドイッチやお菓子をつまみながら脇を通り過ぎる飛行機で今から異国へ飛び立つ人々に手を振ってお見送りして過ごしたい。
吹き抜けるジェット機の風を全身に浴びながら青い草の香りを胸いっぱいに吸い込みたい。
そもそもどんな植物が生えているのかが気になる。海外からの飛行機に付着してくる種子が発芽することはあるのだろうか。防疫的には繁殖されては問題になるのでおそらく管理班がこまめに除草剤などで繁茂しないようにしているはずだがどうなっているのだろうか。新たに浸入する植物は防いでいるだろうが、今となっては日本の風景に溶け込んでしまった外来種はのびのびと生えているようだ。

シロツメクサは江戸時代にオランダから長崎の輸入されるガラス製品の破損を防ぐための緩衝材として品物と箱の間に詰められて日本へやってきた。
白い花が咲く詰め草という意味の名前だ。明治以降は家畜の飼料として栽培されたために日本全国に一気に広がった。
黄色い花が目立つセイタカアワダチソウも明治時代に海外から日本へやってきた植物だ。切り花用に導入されたが爆発的な繁殖力と喘息や花粉症の原因の一つとされて忌み嫌われてきた存在だが、虫を介して花粉を媒介する植物で、風に乗って花粉が飛ばないので病気の原因は濡れ衣である。
今やシロツメグサもセイタカアワダチソウも日本の風景の一つになってしまった。海外の空港ではどんな植物が草むらを作っているのか気になるところだ。

空港の草っ原でお茶会は現実的でないことは百も承知だし、あの草むらに入ってみたら多分居心地が悪いことも分かっているけれど、憧れは消しきれない。
大人になってみると幼い頃に夢見ていたことはお金や時間を度外視すれば大概が実現可能なことを知ってしまった。

この世に荒唐無稽な事柄というのはそうそう転がってはいないようだが、シンガポールの森の上で見た怪物のようなサイズの植物のように、自由な思いつきをまだまだ抱えていたい。

宮内 元子 みやうち ちかこ(文・2,3,6~8枚目写真)

水戸市植物公園 勤務
元 渋谷区ふれあい植物センター 園長
植物園の温室に住みたいという欲望を拗らせて現職。
今行きたい植物園はドイツのダーレム植物園。