庭の中の人

ガーデナーや研究者、植物愛あふれる人たちが伝える、庭にまつわるインサイドストーリー。

第四十二話 匂い起こせよ

2024.03.20

study

毎日、国内外の情勢や出来事をチェックするのと同時に、全国の植物園の開花情報も把握するのが楽しみのひとつだ。それぞれの街の家族や知人、顔は合わせたことがなくても繫がりのある人の顔を思い浮かべながら、気候や環境の違いを感じるのが面白い。

東京に居た頃、春めいてくると開花が気になる桜があった。渋谷警察前から恵比寿に向かう大通りを一筋入ったところにある、金王八幡宮の境内の「金王桜」だ。江戸時代後期に刊行された「江戸名所図絵」にも描かれているほどの桜で、一枝の中に一重咲きと八重咲きの花が同時に咲く。ご近所さんと「金王さんの桜は咲いたかしらね」と井戸端会議の話題になり、植物園の来園者にも「渋谷駅から帰るならあそこの桜もご覧あれ」とおすすめしていた銘木だ。

もうひとつ東京の桜といえば、明治通り沿いに植えられている「陽光」という早咲きの桜だ。所属してた会社を退職して東京を発つ日、この陽光が満開になった。ショッキングピンクが好きな私には最高の見送りの花だと晴れ晴れした気分になったことを覚えている。

街が梅一色の時期に東京から茨城の水戸に移住した。街のそこかしこに梅の木が植えられている。これは行政が過去に市外からの転入者や出産祝いに梅の苗木を配る取り組みを行っていたおかげらしい。梅は街のシンボルツリーだ。
毎年梅の開花時期ともなると、駅の改札前にも梅の鉢が置かれ観光客を迎えてくれる。こうなるとお正月の松がとれた辺りから「今年の梅の一番花はいつだろうか」とそわそわしてきてしまう。私の職場である水戸市植物公園にも梅林があり、2024年は1月14日に「風流」という一重咲きの白梅の開花を皮切りに梅が次々と開花。冬芽の木々の中を白や桃色の雲が流れていくようで壮観だった。

水戸の梅文化は江戸時代に水戸藩主の徳川斉昭公が梅の花と香りを好んだことに由来することのみならず、梅の効用を藩政に生かすことで築かれた。青梅は生薬であり、梅干しにすれば軍用貯梅になり、戦に備えたのだ。こうして日本独自の加工食品である梅干しは江戸時代以降に庶民の食卓に欠かせないものとなった。徳川斉昭公が築いた日本三大名園の一つである偕楽園は「藩民と偕(とも)に楽しむ」という意味で名付けられ、開園当初には一万本以上の梅が植えられていたらしい。

さて、花毎の読者の方々は梅と桜の違いなど一目瞭然だとは思うが、花以外でも見分けるこつを紹介しておこう。
梅の幹はひび割れが不揃いで、主な枝から空に向かって立つように細かい枝が出る。紅梅、白梅と分けるのは花の色ではなく、枝の内部が赤いか白いかの違いなので、紅梅でも白い花や白梅でも桃色の花の品種がある。葉は花後に出てくるので、花と同時に見ることはない。
桜の幹は艶のあり横縞が細かく入る美しい肌で、木工細工の材料にもなる。開花期の終盤に次々と葉が出てくるので、花と葉を同時に見られる。
ちなみに同じバラ科の桃の場合、幹肌は艶がない斑模様で、細長い葉が花と同時に出る。

中央アジアには日本の桜や梅のような存在がアーモンドである地域もあるらしい。アーモンドも同じくバラ科の樹木で、梅や桜の親戚ではあるが、花はサクラの染井吉野よりも一回り大きく、桃色が濃いので、はいからな感じの花だなと私は思っている。ちなみに食用の木の実であるアーモンドは、固い殻を割った種子の中身の部分で、薄い果肉は食用にはならない。

出会いと別れの季節になると、ラジオから流れる曲が桜を歌ったものがやけに多くなる。気になって、歌詞の中の単語を探すことができるサイトで桜と梅という字が歌詞の中に含まれる曲を検索してみた。
桜で検索をかけると大体3000曲が該当するのだが、梅では約200曲と少ない。細かく調べてみると桜は花そのものを歌っているが、梅は地名や食べ物の事を指している歌詞が多く、その違いが面白い。

過去をさかのぼってみれば、奈良時代の和歌をまとめた万葉集で桜が詠われているのは44首。それに対し梅の歌は118首。平安時代になると桜と梅の人気は逆転して、古今和歌集に載る桜の歌は70首で梅は18首だ。
ファッションに流行り廃りがあるように、園芸や花にも流行がある。早春から馥郁たる香りをもたらす清雅な花「梅」から、一気に咲き誇り、あっさりと散っていく優美な花「桜」の流行はずいぶん長く続いているようだ。
しかし、1月半ばとて、梅園が公開されれば寒さに震えながらもまずは梅見に出かけ、2月ともなれば、今度は桜前線と毎日の天気予報に一喜一憂し出す私たちは、香りが漂わずとも春を忘れない、梅も桜も愛する花好き民族なのだろう。


宮内 元子 みやうち ちかこ(文・写真)

水戸市植物公園 勤務
元 渋谷区ふれあい植物センター 園長
植物園の温室に住みたいという欲望を拗らせて現職。
今行きたい植物園はドイツのダーレム植物園。