第四十六話 彼方の山
2024.07.22
知study
山や海に近い街に暮らし慣れたせいなのか、身の回りに一つ手ごろな山がないと落ち着かない。山の形で自分がどこにいるか把握して歩いてきたし、百貨店内に「海側」「山側」の表記で出入り口が示されているのが当たり前だと思って大きくなった。
だから、初めて関東平野に足を踏み入れた時には、見渡す限り土地が広がっているのを目の当たりにして度肝を抜かれ、平野に暮らす人たちは何を目印にするのか迷子にならないのかと不安になった。
手ごろな山ってなんだという話だが、通りすがりにちょっと登ったら、息はあがるものの翌日筋肉痛になることもない高さで、なんとなく気分がよくなる山とか、朝起きてカーテンを開けると視界の中にすっと在って「ああ晴れだな」とか「実家に電話しようかな」と思う、暮らしに溶け込んだ山だ。
母の実家には裏山があった。座敷の続きのように存在したその山のおかげで私はちょっとシイタケを採ってくるとか、暇を持て余している時になんとなく一周してみるとか、自分が生まれた時に植えてもらった果樹を眺めるとか、テレビで見た昔話に出てきた池に似ている気がしておっかなくて池には近づかないようにするとか、出会いたくない生き物に知らせるためにわざと音を立てて歩くとか、夜になると何かが山から下りてきて庭先でゴソゴソしていそうで闇の方を覗き込まないようにするとか、そんな事を体験した。
今から思うとそのような体験は学校の試験に出てくる知識ではないけれど、生きている内にぽつりと必要な本能を育てる基礎だった気がする。
育った街の真ん中には神社の山があった。今思えば山と呼ぶより大きい丘位のサイズだったが、小学生の私はその山を貫くトンネルが異世界に通じるようで、あちら側へ行くのにドキドキした。
その山は街の中にあるのに海岸に生える植物が多く生えていて、かつてその地が海に浮かぶ島だったことがうかがえる植生だ。街の開発が進んでも鎮守の森や山にはその土地ならではの植物や生物が残っていることが多く、環境データを調べるには貴重な存在だ。
特に山は標高100メートルの違いが気温の変化に直結する。標高の低い所から高い所まで垂直方向に生える植物は変化していくので、スタートから登頂まで植物の特徴や樹木の変化を観察すると面白い。
低山から山地には落葉広葉樹が多くみられるので森の中は比較的明るくて柔らかい印象だ。山地から亜高山では針葉樹が多くなるので森が暗くなる。亜高山から高山の狭間で突然木々の高さが低くなり林がなくなる「森林限界」が訪れる。森林限界から先の高山は草原や灌木が広がり、さらに植物は生えなくなっていく。
7月半ばに中央アルプスの木曽駒ケ岳を歩いた時のこと。ロープウェイに乗って青々とした森の上を通りぬけ一気に標高2600mまで上がり日本で一番高い所にある千畳敷駅に降り立つと、雪と氷が残ったすり鉢状の地形に高山植物のお花畑が広がっていた。どの植物も吹き抜ける風や雪から隠れるように草丈が低い。
崩れてきた天候を気にしながら大きな岩の重なる登山道をよじ登っていくと、主稜線の「乗越浄土」に出た。
モヤの立ち込める小雨の中、ゴロゴロと石が広がるばかりで生物の気配がない。これは浄土ではなく地獄へ来てしまったのではないかとヒヤッとした。
爽快感が忘れられなくて山登りが好きになる人も居るが、私は下界のおじいちゃんがのんびり世話をしている裏山でタケノコを掘ったり、栗の毬を蹴ったりするので十分楽しいなと思った。ここまで書いてきてなんだが、そもそも山と海どちらに行くのが好きかと問われたら、私は海の方が好きだ。
国土の約7割が森林である日本だが原生林は少ない。人の手が入っても自然に更新している天然林や人工林がほとんどで、我々は長く山や森と共に生きてきた。
漁業を営む地域の沿岸部の森林を「魚つき林」と呼ぶことがある。海から離れた山の恵みが川を下って海に流れ込み、豊かな海を支えているのだ。
母の実家の裏山は管理する手が間に合わなくなってしばらく経つようだ。大きな震災で崩れた部分もあり、植えたけれど使われないままの木々もあり、シイタケを採るには榾木となる木を切って菌を植えてやらねばならず、手のかかる大きな生き物が年老いていくのを目の当たりにすると寂しいのでますます足が遠のく。
最近、近所の植物園の展示即売会で水石を買った。水石とは山や滝を連想する形や、模様・色の美しい石を観賞する趣味の一つで、盆栽と共に床の間に飾って楽しんだりする。
以前からなだらかな山の形で本棚の隙間に置いておけるサイズが一つ欲しいと思っていたのだが、ついに出逢ってしまった。関東平野の隅っこで、インドア派の私が両手で持てる山。
畳にころがって視線だけで山登りする。しばらくはこれで良し。
宮内 元子 みやうち ちかこ(文・写真 )
水戸市植物公園 勤務
元 渋谷区ふれあい植物センター 園長
植物園の温室に住みたいという欲望を拗らせて現職。
今行きたい植物園はドイツのダーレム植物園。
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