第四十七話 先生と私
2024.08.22
知study
もう暦の上では秋だが、気分は夏だ。勤め人になり、さらに生物相手で不定休の身になってみると夏季休暇をお盆にとることがないけれど、自分が連続で休暇をとるまでは夏、というマイルールがある。そして、初夏になると今年の夏は何処へ行こうかと考え始めて、晩夏を楽しみに一夏を過ごす。
子どもの頃の夏休みは四国で過ごすことが多かった。フェリーに乗って四国へ渡り、四国山脈を越えて高知に入る。広く青い太平洋の水平線から沸き立つような入道雲を眺めながら高知の街中を抜けて海沿いに出たら、プリンを皿にひっくり返したような小さい山の細い道をうりうりと上っていく。
反対側から車が出てきたら引き返せない、どうするんだろうと幼い頃は心配していたのだが、年端がいくとそこが一方通行であることを知った。
その山を二分の三程上った所に植物園がある。
高知県立牧野植物園は、2023年の朝の連続ドラマで話題になり日本の植物分類学の父として注目を浴びた、高知県の牧野富太郎博士の功績を伝える植物園だ。
今となっては施設が充実している植物園だが、幼い私が通っていた頃は「静かだから良い」という父のチョイスのとおり、自分たち以外に園内で人とすれ違うことは稀で、蝉の鳴き声だけが響き渡る場所だった。
薄暗い温室の中は異国の植物がひしめき合っていて、ちょっとおっかなく蒸し暑い。展示してある植物なのか、勝手に育ってしまったのか分からない植物たちがモサモサ生えている園路の途中にはコンクリートで作られたらしいキノコのお化けみたいな何かの模型が置いてある。剥げかけた表示にヤッコソウと書いてある。
古ぼけた倉庫のような建物の脇に恐竜の模型がいる。赤錆色の体にガバッと開けた口のギザギザの歯がなかなかの迫力だが、頭と身体の大きさがアンバランスなせいで怖くはない。この建物は実は資料館で、この灼熱の園地の中で唯一冷房が効いている、お休みひんやりスポットなのだ。
車から降りた途端トンボやチョウを追いかけて行ってしまった弟達も、温室の中でいつの間にか姿を見失っていた両親も気付くと皆、この資料館に集まっている。わかるよ。だってここ、涼しいもんね。
館内のガラスケースの中には牧野博士の写真や書、さまざまな人からの手紙や遺品が展示されていた。写真の博士は大きく口を開けて笑っているか、目元にくっきりと皺を寄せて微笑んでいて、その視線が真っ直ぐなのが幼心にも印象的だった。
何度も訪れるうちに、日本の植物に名前をつけて、図鑑をつくった人だということを知った。そして、新種をみつけると自分の名前がつけられることも知ったけれど、しっかりと理解できたわけではなかった。
そして、恐ろしい金額の借金をして本を買い集めたことや、うず高く積み上げられた植物標本の詰まった部屋の写真を見ては何かを成し遂げる人は無茶苦茶な生活でも許されるものなのだろうか?と大人の世界の不思議な構造に想いを馳せた。
だが、この頃の私は園内に植えられた植物よりも、牧野博士の功績よりも、園を出たら向かいのお土産屋さんで買ってもらえる可能性が高いレモンの蜂蜜漬けのスライスがのったカップ入りのシャーベットのことで頭がいっぱいだった。弟たちと分け合わずにひとりでカップ1個を食べて、レモンのスライスも全部食べてやるという決意ばかりを毎年積み上げて大きくなった。
大人になって奇遇なことに私は植物園の職員になっている。おそろしいのは人生のどこかで「本はどれだけ買っても無駄にならない、必要かもと少しでも思ったら買っておく」癖が染み付いてしまったことだ。資料館で解説を読んでくれた父が「本は無駄にならないから間違えて同じ本を2冊買っても気にするな」と私に刷り込んだせいもあるとは思う。
今のところ、家族を苦しめるほどの借金を重ね、借金とりから逃げ回るために引越しを繰り返したりはしていない。しかし、気になったらこの目で見てみないと満足出来ず飛行機に乗って何処かへ行ってしまったり、周りの人を巻き込んで何かを分解して数えたりしている。
そんな時の私を写真に撮っていただくことがあるのだが、自分でも笑ってしまうほど写真の中の私は妙に真っ直ぐな目をしている。もしや私も執念の目の持ち主なのか?
真っ直ぐな目である必要はないが、植物を見て何か新しい事を発見するのに必要な目力はあるような気がする。似ているものや一つのものを繰り返し見る中でほんの少しの変化に気付く力だ。
知り合いの研究者の中には車で山道を走っている途中に通り過ぎた斜面に生えていた植物を目の端で捉えた瞬間に違和感があり、引き返して植物を採取し、後にそれが珍しい種であることがわかったという人もいる。
一つのものを見続けても飽きない性分が必要とも言えるかもしれない。人は誰でも好きな事ならばずっと追い続ける事ができるとは思うが、それを職業にしたり、何か得るものがないような気がしてもそれでも追い続けるにはやはり執念が必要だ。
超絶技巧といわれる牧野博士の緻密な植物画も、博士の執念と眼力あってのものだろう。植物をしっかり観察したいと思われる方や、植物の変化にこまめに気づきたいと思われる方は、まずは毎日視界に入る場所にどんな花が咲いたかを見ることで「見る練習」をされるとよいかもしれない。
繰り返し同じ場所を見ることでだんだん目が細かくひとつひとつの物を捉えるようになり変化に気づきやすくなる。咲いている事を確認した花は名前を調べて、頭の中で「**が咲いているな」と反芻すると、じわじわと認識力が高まる。
さて、牧野先生、私は学校の成績さっぱりだし、絵も上手くないし、新種を見つける程の功績もあげられないのに、どうして、こんな糸が切れたらどんどん飛んでいく風船のような気性だけは植え付けてくださったのですか。
私がもともと持っていた性分だとは思いますが、先生がこの種子を育てる何かを与えてくれてしまったおかげな気がしています。