庭の中の人

ガーデナーや研究者、植物愛あふれる人たちが伝える、庭にまつわるインサイドストーリー。

第五十一話 石の木

2024.12.21

study

某日、この時期愛してやまないコタツから這い出て河原にいた。
秋風も冷たくなり、気を抜くと鼻水が垂れてくる。わざわざそんな時に北関東の片隅でさらに水辺にいるなんて何をしてるんだと自分でもおかしくなるが、目的は石拾いであった。

茨城県北は地球の地質学的重要性を体感できるスポットや景観が豊富で、日本三大名瀑の一つの袋田の滝も茨城県北に位置する。私が訪れたのは水戸から車で45分ほどの常陸大宮の河原で瑪瑙や珪化木が拾えるらしい。瑪瑙は鉱物の一種で、小さな石英の結晶の集合体だ。白や灰色の他に赤褐色のものもある。珪化木とは植物の化石のこと。植物の細胞の中に水に溶けた珪素が入り柔らかい材が置き換わって石のようになったものだ。

幼い頃から海岸で貝殻やシーグラスを拾うのは好きだったので、河原で石拾いをしようと誘われた時、二つ返事で行くと返答したものの石の事は何一つ分からない。
河原に出てもどんなものを拾えばいいのか皆目見当もつかないし、そもそも素人でも拾えるものなのだろうかと不安だったが、座り込んで石を眺めているとなんとなくこれかな?と思うものがある。
普通の石は長い時間をかけて上流から転がってきている内に角が取れて丸い卵のような形が多い。瑪瑙はなんとなく角が残っていて、濁ったガラスのような質感があるのだ。拾い上げてみると、普通の石はザラザラしていて握りしめていると体温が移っていく感じがするが、瑪瑙はツルツルしていてずっと冷たい感じがする。
じっと目の前の石を見ている内に自然と瑪瑙には目がとまるようになり、ついに全体がオレンジ色で今さっき何かのガラスを割ってできた破片のような赤瑪瑙の欠片を見つけた。光にかざしてみると向こうが透けて見えて、古代の人たちがこの石を貴重なものとして大切にして勾玉やビーズを作ったのも納得できる。

目が慣れて拾っては前のと比べ、取捨選択できるようになったものの、珪化木が分からない。同行者が拾ったものを見てみると、年輪や幹肌の模様がそのまま残っていて「木だ!」と一目でわかる感じがする。でも自分の目には入ってこない。
瑪瑙も嬉しかったけれど、植物好きとしてはどうしても自分で珪化木が拾いたい。
うーんうーんどこですかーお返事してくださいと呟いていたら、透き通ったオレンジ色に白色を重ねた透明感のある塊を見つけた。
スゴイ!こんな瑪瑙!お宝発見や!と小躍りしながら近づき、拾い上げかけて気付いた。

オマエ、綺麗に皮が剥けたミカンやないか…

こんなところで何してんだよ。腹立たしいので川の流れに放り込む。数十万年後にミカンの化石となって現れるがいい!

もう瑪瑙はいいから珪化木ボクボクボク出でよボクボクボクと唱えていたところ、ついに「これは元が木だったやつだ」と直感で思う一つに出逢った。
普通の石に比べて白くなんとなく軽い感じがする。表面に細かく筋状の模様があり、植物の繊維の質感がある。いつの時代を生きていた植物だったのだろうか。
石拾いをしていた久慈川の上流には袋田の滝があり、およそ1500万年前に堆積した地層でできている。
滝周辺では貝の化石がみつかることもあるらしく、古くからこの地域が海の底だったのが陸になったりしながら、様々な生物が生きてきたことを感じる。たった一つだけだが自分で見つけることのできたのが嬉しくて、何度も掌の中で転がした。

私が愛してやまないコタツも電気が通らないとただの冷たい机である。
電気を作り出すには様々な方法があるものの、国内のメジャーな発電方法の一つは火力発電だ。石油はプランクトンの死骸が堆積し化学変化によってできた燃料。石炭は植物が堆積し地中で炭素分の豊富な岩石状の物質になったもの。命はこんなところでも巡り巡っている。私もこの命が尽きたら他の命のお役に立ちたいものだと思いながら、鼻の先までコタツに潜り込んだ。ぬくぬく幸せ、河原の寒さも忘れてしまう。皆さまも風邪などひかれませぬように。

宮内 元子 みやうち ちかこ(文・写真 )

水戸市植物公園 勤務
元 渋谷区ふれあい植物センター 園長
植物園の温室に住みたいという欲望を拗らせて現職。
今行きたい植物園はドイツのダーレム植物園。