花月暦

日本の文化・歳時記研究家の広田千悦子さんが伝える、
季節の行事と植物の楽しみかたのエッセイ。

第二十七話 「啓蟄のこと」

2019.03.06

life

啓蟄は、おだやかに降る雨が、大地をゆるやかにほぐし、さまざまなもののなかに、潤いが戻ってまいります。

春雨は、華やかに飛ぶ花粉をも大地に落ち着かせながら、人の心も静哉かになる音を響かせています。

同じ雨は、物語のようにしっとりと草木花を濡らし、乾ききったものの息を吹き返らせます。
眠りから目覚めていく小さないのちや、新芽の生き生きとした動きを直に素肌で受け取るような、時を迎えています。

早朝の小鳥達のさえずりも、今のところはウグイスの独り舞台ですが、冬の間から連なる静寂な季節もあとのこり僅か。
間もなく、様々な小鳥達や虫は目覚め、世界は、次第に命の音に満たされていくことでしょう。

もうじき、大きく動きだす桜を合図にすべてのものが覚醒しきる前の今は嵐の前の静けさの中。

目立たぬようでいて、肝心な啓蟄の時。

季節のめぐりに歩調に合わせて暮らす習慣を今年こそは、と手に入れたい人にとって、思いがけないほど、ちょうどよい稽古の時間です。

沈丁花

香り高き春の花、沈丁花。
その名も、香料の沈香と、丁字にたとえたもの。
もう少し詳しくみていくと、香りは沈香に、花は丁字に似ていると江戸の百科事典『和漢三才図絵』や『大言海』に記されています。
部屋にひとたび飾れば、空気までも染めてしまう。
そんな強い趣きの香りです。室町時代には日本で栽培されていた中国原産の植物で、花色には、白花、紅赤花などがあります。沈丁花の花を眺めていると、五月にこしらえる邪気払いのための薬玉をいつも思い出していました。
花枝を取り、紫陽花の玉のようにかたどり、置いてみると、一部屋も越えて、家中に香りを放ちます。
まさに香りで災い除けの呪力を発揮する薬玉となりました。

橘のジャム茶

先日の桃の節供にあしらいにつかった、左近の桜、右近の橘の「橘の実」を、ジャムにしたものをいただきました。
小さなスプーンひと匙をコップに入れ、沸騰させたお湯を注いでジャム茶に。
突如として冷え込む日があり、まだまだ寒さに油断できない季節です。
そんな季節にぴったりの、心と身体に染み込む暖かな飲み物になりました。

犬の子

2月と3月に行われる行事のひとつ、涅槃会。
本来の期日は2月15日となりますが、お盆と同じように、旧暦で決めた季節感を大事にする発想から生まれた時季として3月15日に行うところも多くあります。
この日は、4月に行われる誕生を祝う灌仏会に対してお釈迦様が入滅した日をしるす日。行事にちなむ習わしの中の「涅槃団子」に花を置いてみました。
お団子は五色の餅を使う場合や、犬のかたちや蛇のかたちなど、さまざまなかたちに拵える場合など各地でさまざまです。
今回は犬の子のかたちを米粉でつくりました。添える花は、花びら藤紫に染めた咲き始めの、諸喝采(しょかつさい)を。
お供えの花として。

春の空

甘い色に染まる春の夕暮れの空。
なごり惜しく残る冬の空の色と、かわるがわるに訪れて春の装い。
霞がたなびく、ぼんやりとした空気にすっぽりと包まれてしまうまでの間。
両方の季節の間をいったりきたりする空も、見納めの時季に入りました。


第二十八話「春分」へ
昼と夜の長さがほぼ等しくなる、季節の大きな、中間点です。
真東から太陽はのぼり、真西に沈む。
古の人々も暦の目処にした、大事な節目がやってきます。

広田千悦子

文筆家。日本の文化・歳時記研究家。日本家屋スタジオ「秋谷四季」(神奈川県)などで季節のしつらい教室を行う。ロングセラー『おうちで楽しむ にほんの行事』(技術評論社)、『鳩居堂の歳時記』(主婦の友社)ほか、著書は20冊を超える。

写真=広田行正